(指揮者/高橋利幸HP『徒然草』2008.12.3*百八十七段*より)

 枯れ葉のことを書いた。土の上ならいざ知らず、コンクリートの上に落ちた枯れ葉のことだ。冬に入る一時期に街路樹の葉が一斉に枯れ落ちる。幾重にも重なり合う。それでもその状態が長く続くわけではない。枯れ落ちたものは急速に消えていくのかもしれない。

 なんだか、人間そのもののような気がしてくる。存在自体は、木々や草花や動物のようなものなのに、なまじ言語をもち、考えることもでき、精神などという存在さえも肯定できる、人間とは、幸福でもあり、不幸でもある。枯れ葉を、落ち葉の山を目にしての不思議な気持ちを抱いた。

 色の印象も考えあわせてみると、色彩はどのように人の心に影響を与えるのだろうか。これも、新緑と茶色の木々を比べてみるとわかりやすい。何といっても新緑は、さあ、これから!・・・という気持ちにさせてくれる。枯れ葉の茶色は落日だ。生きる喜びと、果ててゆく象徴か。つい最近、畳の表替えをした。和紙の畳だ。井草よりもさらに緑が鮮やかだ。その部屋だけは新緑になった。心も少し・・・。

 詩人や音楽家は、生きる喜びと、果ててゆく苦しみと、その中から、復活や、よみがえりを信じたいと思う気持ちが人一倍強いようだ。作品にそれが現れる。この三つは人間の永遠の課題なのだろうか。人間だけがもちうる課題だ。

 あと、二ヶ月後に、「蝶」の指揮をする。このような深くて重い内容の曲になると、指揮者の存在よりも、歌う人の存在が大きくなる。このことは、あまり、指摘されないことだ。小曲のほうが、指揮者の存在を感じさせ、大曲のほうが演奏者の存在を大きくさせる・・・これは、合唱曲に限ったことではない。演奏する人が、どんなふうに感じ、音として表現してくれるのだろうか。指揮者は、それを引き出す役目を負う。

 さて、この組曲「蝶」は、誕生から、よみがえりまでを蝶の一生に託して歌いあげている。詩人も偉大なら作曲家も偉大だ。この曲は鑑賞するのではなく、歌うか、指揮をするか、ピアノ伴奏をするか、要するに表現することでしかわからない感覚の多い曲だと思う。唯一、曲の神髄に触れるには、聴いているときに、「蝶」になりきることしかないと思う。そうすることで言葉の一つひとつが、旋律のごく一部でさえも我がことのように思えてくる。そして、背筋がふるえる。「灰色の雨」と「よみがえる光」以外は、無調ともいえる、印象的なメロディーが出てこない。しかし、このなかに、「蝶」への作曲家の思いが込められている。

 合唱団は生き物だ。人間の集まりだから当然だが。正直、二ヶ月後を見通せていない。曲を選んだのは指揮者の私だ。

 時間をどう使うか・・・正念場を迎えた。




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ねむの花 第5回演奏会 「女声合唱の世界 〜忘れられない名曲シリーズVol.1〜

指揮者/高橋利幸HP

枯れ葉の行方と「蝶」