(指揮者/高橋利幸HP『徒然草』2010.1.29*三百九十七段*より)

 頭というか、脳というか、人間の意識は不思議だ。その時その時に感心のあることに支配される。たとえば、今日、合唱団の練習があった。とすると、取り上げている曲が田三郎の曲だ。そして、多くの時間を使ったのが「私の願い」組曲の二曲目、フーガの旋律と歌詞が頭から離れない。次の言葉で始まる。「まことに 高きものの名を 呼びかわしつつ・・・」その「名」とは誰の「名」なのだろう。

 この組曲は二曲しかないのに、作曲者は「合唱組曲」と名付けている。二曲でも演奏時間は20分弱というスケールの大きさを持っている。作曲家にはその人の独自の雰囲気がある。それはモーツァルト、ハイドン、ヘンデル、ベートーヴェンなど西欧の作曲家も日本の作曲家も同じだ。もっとも、その人ならではの持ち味がなくては作品の存在意味も薄くなるから、当然と言えば当然だ。

 田三郎の世界はどんな世界といえばいいのだろうか。色は・・・モノトーンか、この一言でわかるように、風景は、と思えばラテン系ではないし、性格は、と考えれば決して派手ではないし、横山大観の「龍」や「富士」の絵を連想させると言ってもいいかもしれない。それでも、その一言では言い表せないのだが。
 そして、組曲というのは一般的には五曲くらいの曲を組み合わせて、起承転結を明確にしたものが多い。そんな中で、田三郎は、この「私の願い」は二曲、「はるかな歩み」は三曲で構成した。

 感動を瞬間で呼ぶのではないのだ。有るべき手法を用いて、曲の終わりにはその世界に引き込んでしまう。田三郎の世界だ。中田喜直の合唱作品には色彩を感じ、おしゃれな世界を垣間見、混声合唱では壮大さも感じ・・・と幾つかのイメージが取りとめもなく浮かぶ。大中 恩には、愛とか、自然から受ける霊感とかを感じ、磯部 俶からは日常自体の分厚さを感じる。田三郎の世界は何と表現すればいいのだろうか。

 宗教への帰依か、人への帰依か、宇宙への帰依か、「帰依」・・・何かの力にすがる人間そのものの姿を感じるのだ。水墨画を思わせる色合いは日本人そのものなのだろうか。ベートーヴェンを思わせる意志の強さや構成の確かさを感じさせながら、越えられない人間の無力さをも感じさせる。
 「こう、ありたい」「こう、生きたい」と願いながらも、それをかなえられない私たち一人一人の精神を表出しているように私には思える。




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ねむの花 第8回演奏会 「愛と心の歌 〜忘れられない名曲シリーズVol.4〜

指揮者/高橋利幸HP

高田三郎の世界