(指揮者/高橋利幸HP『徒然草』2010.3.12*四百六段*より)

 「わたしの願い」でいっぱいになる。高野喜久雄の詩に田三郎が合唱曲とした。
 自分の指揮リサイタルを二週間後に控えているのに、頭の中は「わたしの願い」だ。

 「水のいのち」・・・同じ高野喜久雄の詩を田三郎が合唱組曲にした。この曲は何度も指揮をしたことがあるのに「わたしの願い」はまだだった。田三郎は高野喜久雄、吉野弘の詩に曲をつけるとき、詩の一部分を変えている。音楽にそのまま書かれている言葉が使えることもあるし、そうでないこともあるのだということだろう。だが、「わたしの願い」の場合は、詩人の書いた詩のままに曲を書いた。「いま わたしがほしいのは」と「雲雀にかわれ」この二つが「わたしの願い」だ。

 「いま わたしがほしいのは 何も 見てない眼 何も 聞いていない耳 おしだまる口だ 抱けない腕と 立てない脚・・・」そんな風に思うことがあるのか。欲しいはずのものが欲しくなく、逆に何もいらない、と言っているようなものだ。
 この逆説的な表現を高野喜久雄は「あなたに」でも用いている。それにしても田三郎は凄いひとだ。「川」「水たまり」「海」の詩に霊感を受けて「水のいのち」を作曲しただろうことは予想できる。(創作者の創作の動機は本人にしかわからないだろう。予想だからあくまでも想像だ。しかし、表現者には想像が必要だと私は思う。)誰もが合唱曲の名曲というだろう「水のいのち」の前に、この「わたしの願い」を作っていたとは。

 曲との出会いは不思議だ。「わたしの願い」を指揮していないことに漠然とした不満足感をずっと持っていた。ようやく指揮をすることが実現しそうだ。この曲の指揮をしなかった間接的なイメージがある。そのイメージは「難しい」ということだ。「いま わたしがほしいのは」54行、「雲雀にかわれ」28行、この長い詩に作曲をされている。この詩は聴き心地のよいものではないとわたしは思った。リアルすぎると。
 指揮をしてみてわかった。「雲雀にかわれ」の冒頭・・・「何故 何故かと問うことをせず ただ ひたすらに 坐りつづけて ただ ひたすらに 受け入れる つよいこころ うつろなこころ 自在のこころ」このところだけで涙が出てくる。・・・ひたすら・・・な曲だと。

 今年は田三郎の没後10年にあたる。様々な形で田三郎の作品が取り上げられるだろう。日本の作曲家の合唱曲にも「古典」と呼べる時代を超えて引き継がれるべき作品があるはずだ、というわたしの想いからすれば喜ばしいことだ。吟味した詩を用いての作曲、そして、常に構成力を失わない田三郎の作品は、モーツァルトやシューベルトやメンデルスゾーンとも違う、そうだあえて言えばベートーヴェンの作品に近いものをわたしは感じる。
 現実のわたしは、直近に迫ったベートーヴェンの指揮に意識を運ばなければならないのだが・・・。




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ねむの花 第8回演奏会 「愛と心の歌 〜忘れられない名曲シリーズVol.4〜

指揮者/高橋利幸HP

わたしの願い