(指揮者/高橋利幸HP『徒然草』2010.5.23*四百二十四段*より)

 海と海よ・・・

 田三郎作品集の本番が迫ってきた。名作「水のいのち」は第2ステージに演奏する。この曲を今までは最終ステージにもってきた。今回、初めて前半のステージにもってきた。組曲の作曲年代順に並べた結果だ。「水のいのち」は、ほとんどの演奏会で「とり」のステージの曲となる。それだけの名曲であり、大曲でもある。

 四曲目の「海」、五曲目の「海よ」を聴くと悠久の時を感じ、心が安らぎ、そして、心が震える。
 海は”空を映そうとして、波を立てずに凪ぎ、岩と混じれなくて、一日中たけり狂うこともある”・・・なるほど、そのとおりだ。
 ”そこに沈むべきものは、沈め、空に帰すべきものは、空に帰した”・・・人は海に母を感じる。「・・・べきもの」・・・この言い回しが私は好きだ。

 「・・・すべきもの・・・」この言葉が現代では死語になりつつあると思うからだ。人として、あるべき姿があるはずなのに、それを声に出して言いきれない。決めつけだと批判される。「・・・らしく・・・」もダメなようだ。「男らしく・・・」とか「女らしく・・・」というと性差別だと批判される。迎合する風潮も嘆かわしい。

 「海よ」では、海を”絶え間ない始まり”だと歌う。”億年の昔も、今も、そなたは”・・・の部分は胸が詰まるだろう。時の単位が、百年とか二百年とかの単位ではない。「億年」だ。海岸で打ち寄せる波を見て、波の音を聴けば、時はなくなる。悠久の営みを続ける海を前にして、己はあまりに小さく、しかし、小さい存在だからこそ、愛しい、と思える瞬間でもある。

 水は空に昇っても、逆らいきれずに、雲となって、また再び、降ってくる。それがわかっていても、登って行くのだ。その理由は”見えない、翼、一途な、翼”があるからだ。結末は見えていても、それでも何かの理由があれば、登りつづけるべきだと、我々に語りかけ、いや、叱咤しているかのように思える全曲の最後の場面・・・”おお・・・”がdimして、空に吸い込まれてゆく・・・そして、確信をもったかのような、ピアノの四つの和音、考えれば考えるほど、完璧だ。

 音楽の表現は奥が深い。何回同じ曲を指揮しても、その時々で表現が大きく変わる。曲が完成されていればいるほどそう感じる。ベートーヴェンの交響曲がそれだ。田三郎さんの合唱組曲には、それと同じような気持ちにさせる奥深さを感じる。初めて指揮をしてから何十年も経つ今でも、その思いは変わらない。




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ねむの花 第8回演奏会 「愛と心の歌 〜忘れられない名曲シリーズVol.4〜

指揮者/高橋利幸HP

「海」と「海よ」