(指揮者/高橋利幸HP『徒然草』2010.5.24*四百二十五段*より)

 いま、わたしが欲しいのは・・・田三郎の「わたしの願い」の冒頭だ。この言い方は正しくはない。詩自体は、高野喜久雄さんの詩だから。詩人の書いた詩のままに、そのとおりに曲を書いた。詩人と作曲家の合作だ。
 いま、わたしが欲しいのは・・・「何も 見てない眼  何も 聴いていない耳  おしだまる口・・・」と続く。時間やお金や名誉や愛ではない。

 欲しいものを「物」ではなく、「精神」や「感性」としてとらえている。「わたしを、捨てる わたしは未練なんか ない・・・」鋭く、悲しい感性の叫びか。

 この詩を読むと、知りたくなることが生まれる。「はっきりと わたしは言える 言えるのだ あなたのほしがった ものの凡てを そっくりそのまま わたしもほしい ほしがりながら わたしも生きると」
 これが、いま、わたしが欲しいのは・・・の最後の部分だ。「あなた」は誰なのか。誰を指しているのか。詩人の中では、具体的に誰かを指しているはずなのだ。

 個人の感覚や感情を、より普遍化する。この作業は創作者の独壇場だろう。わたしは、この詩を書いた時の高野喜久雄さんの中の「あなた」を知りたい。それにしても、「そっくりそのまま わたしもほしい」と言い切れるのはなぜだろうか。これだけ「同一化」できるとは。わたしにはできるのか。

 そして、二つ目の詩・・・「雲雀にかわれ」になる。その、「あなた」が「せせらぎ」といえば、すべてのものは「せせらぎ」に変わる。それを感じた本人が試みる。「雲雀!」と唱えれば「凡ての ものは 雲雀にかわれ・・・」と願うことでこの詩は終わる。狂った友の心とひとつになり、自分もそうなりたいと願う・・・常人ではそう思わないだろう。

 しかし、そんな風に、「純」に生きたい、と願う心は誰にでもあるのかもしれない。高野喜久雄と田三郎の「わたしの願い」は、わたしにはかなえられない「願い」なのだ。かなえられない「願い」をどう表現するのか、どう解釈して、どんなふうに指揮をするのか・・・取り組み方は決めている。詩も曲も素直に凡て受けいれる。情緒あふれる詩ではあるが、それに作曲をして、合唱曲とした田三郎の想いを表現者としてどう聴衆に伝えるか。あるべき姿で伝えたいと願うばかりだ。

 曲を表現するときに、その曲の「あるべき姿」を感じ取り、作曲者と聴く人の間にたって、己の役割を果たす。演奏という行為は、創造者と受ける人間との、仲介人の役割を果たすものだと思う。最近の練習であらためて、そう確信した。




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ねむの花 第8回演奏会 「愛と心の歌 〜忘れられない名曲シリーズVol.4〜

指揮者/高橋利幸HP

曲の「あるべき姿」