合唱という表現団体、あるいは表現方法と言ってもいいのだが、これは、楽器の表現とは違うものを感じる。人の声での表現方法だからか、声部(つまりパート)が少ないためなのか、楽譜がすでにスコアと同じになっているからか、はたまた、「詩」への作曲になっているからか、理由はよくわからない。

 何回かの練習での本番・・・これはオケや吹奏楽ではよくあるパターンだ。何の不思議なこともなく、そのように本番を迎える。合唱の演奏の際には、なかなか割り切れない。少しの不安か、不満が残る。(ような、気がする。これが正しい言い方だ。)やはり「詩」の存在が大きいのかもしれない。音符だけの器楽の世界と違って、加わるものが「詩」・・・つまり「言葉」だ。

 時々、語句の意味が今一つ分からないままに演奏していることさえもある。中田喜直の「ぶらんこ」・・・「おけしおく ちごは・・・」これもその一つだ。「うこんさくら・・・」これも調べればわかるのだが、実際にそのものを見たことはないような気がする。それでも、イメージで演奏する。

 演奏する人の解釈の中に、音符以外に言葉が加わるのだから、解釈というか、感じ方がさらに複雑になる。このことが、合唱の指揮は難しい、と思わせている可能性が高い。実は、それでも、音楽として立派に成立する。このことも確かなのだ。ひとつの言葉の意味がわからないからといって、表現ができないと決めつければ、今まで経験したことのない外国の言語の曲は演奏できなくなる。音楽は万国共通だと言える理由は、その言葉の壁を越えられる存在だという意味でもあろう。言葉にメロディーが加わり、和音が加わり、強弱やテンポの変化が加わり・・・そうなると、言葉がすべてではないことに気づく。

 音楽は、いろいろな意味で奥が深い。オペラや宗教曲を聴くときに、字幕スーパーや、ホール内での字幕翻訳がないと意味が良くわからないことは多い。私は、そんなときでも、字幕を見ないで音楽に集中することが結構ある。時には日本語の字幕が邪魔になることさえある。解釈や研究や、物語の筋を重要視するときは、日本語での理解が必要だ。そうではなくて、さらに、空想や想像の世界に身と心を委ねれば、はるかに多くの啓示や示唆や、感動を覚えることもできる。

 音楽へのアプローチは様々で、通る道はいろいろあった方が楽しいだろう。「ひねもす・・・」という言葉の意味がわからないままに歌っている若い合唱団員がいても、それは悪いことではない。もしかしたら、その人の「ひねもす・・・」があるのかもしれないのだから。これを書いているうちに、少しだけ合唱指揮が楽に思えてきた。文章を書く。不得意な行為でもやってみるものだ。






ねむの花 HOME
ねむの花 第8回演奏会 「愛と心の歌 〜忘れられない名曲シリーズVol.4〜

指揮者/高橋利幸HP

(指揮者/高橋利幸HP『徒然草』2010.6.1*四百二十七段*より)

合唱の表現