(指揮者/高橋利幸HP『徒然草』2011.6.16*四百六十九段*より)


 来月7月3日に、女声合唱団「ねむの花」の演奏会で指揮をする。一つのステージが湯山 昭 作曲の合唱組曲「愛の河」だ。この組曲を何十年かぶりに指揮をする。
 部屋の本棚を見まわした。一冊の本の背表紙が目に入った。掘秀彦の「もし 愛がなければ」という本だ。手に取った。1972年の初版本だった。39年も経っていた。

 掘 秀彦の著作本と高校生の時に出会った。本を読んでこの人を好きになった。大学の教授もされていた。それに惹かれて其の大学に入学し、実際に授業も受けた。大学闘争が始まった。ロックアウトという学校封鎖が行われ、授業がろくに行われない状況になった。この後、音楽の道に転向をした。

 音楽の専門学校に行っていても、掘 秀彦の名前は忘れなかった。テレビか月刊誌の広告で「もし 愛がなければ」を紹介していた。すぐに買って読んだ。そのころ、付き合っていた女性がいた。水道橋駅直近の「ジロー」というレストラン(喫茶店だろうか。こんな呼び名は今では死語か。)で、その本を読んだ。二人とも当然若かった。印象に残った個所に線を引いた。囲いを付けた。今ならつけないだろうと思うところに印がついていた。

 合唱組曲「愛の河」は、和田徹三の「相聞」「華燭」「誕生」の三つの詩を女声合唱組曲としたものだ。「愛」という言葉に思いをはせた。掘秀彦は「愛」は名詞ではなく「動詞」だと書いていた。私もそう思った。生きていくための血液の大部分が「愛」なのではないかと思った。血液だから、留まることなく流れている。

 パウロはこう書いている。「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても もし愛がなければ 私は無に等しい」と。新約聖書のコリント人への第一の手紙の結びは、すべて「もし 愛が なければ」という言葉で結ばれているという。

 224ページに及ぶこの本の内容をここに書くのは難しい。先に亡くなられた奥様への掘 秀彦の思いがあふれている。

 「だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。
 力と気品は彼女の着物である、彼女は口を開いて知恵を語る、
 その 舌には いつくしみの 教えがある。」

 巻頭に書かれたこの言葉に、作者の全てが込められていると思った。旧約聖書の一節だ。

 合唱組曲「愛の河」を名詞としてではなく、熱い血液の流れのように表現したい、そのような指揮をしたいと思いがあふれる。





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ねむの花 第10回演奏会 「EVENING CONCERT 愛と心の歌〜忘れられない名曲シリーズVol.6〜

指揮者/高橋利幸HP

「愛」は動詞